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 早稲田大学 大和稲門会のホームページ
神奈川県大和市を中心に活動している'大和稲門会は、早稲田大学の校友との趣味を通して、日々の生活を豊かに楽しみたい校友の皆さんの親睦会です。皆さんの参加をお待ちしています。
 会員相互の親睦・情報交換のほかにも、私たちの母校との絆となる支援活動の場として、また神奈川県支部傘下の校友会として、さらに県下各地の稲門会との有機的な交流を主に活動しています。

 このホームページでは、私たちの大和稲門会の活動を広く紹介し、会員に対しては相互の情報交換と活動の場として、さらには新たな会員を迎えるために参考となる情報を提供しております。

大和稲門会 会長寄稿文「敗戦の日々を回顧する」

   会長特別寄稿文

戦後70年 敗戦の日々を回顧する

    石川会長      大和稲門会 会長 石川 公弘

 昭和20年8月15日は、確か暑い日だった。当日は正午に「玉音放送」とやらあるということで、国民学校5年生だった私も、今も住んでいる大和町上草柳の我が家のラジオの前にいた。数日前に満州へソ連軍が突如侵入をしてきたことを知っていたので、おそらくそれに対する宣戦布告だろうと、子供心に考えをめぐらしていた。   

 正午の時報の後、NHKのアナウンサーの紹介があって、玉音放送は始まった。生まれて初めて聞いた天皇陛下の声はかん高かった。その上、ラジオの性能が悪いのか雑音が多く、よく聞き取れない。使われている言葉も聞き慣れないものばかりで、よく理解できなかった。しばらくすると、台湾少年工の寄宿舎の舎監をしていた父親が、家に立ち寄ったので、「お父さん、ソ連との戦争が始まったの」と聞いてみた。

 父親は沈痛な顔をして、「いや、戦争に負けたんだ」と短く言った。びっくりした。しかし、心のどこかに「そうだろうな」という気持ちも正直あった。新聞やラジオは連日のように、「神州不滅」を言い、神風特攻隊は連日、敵艦隊に突入して多大な戦果をあげていたが、一方で東京や横浜がB29の大編隊に爆撃されて、真っ赤に燃え上がるのを目撃したり、叔母の住む平塚も爆撃され、父親と見舞いに行ったら、隣家まで焼野原だったりしたのを、見ていたからである。幸いなことに、叔母の家は壁面がトタン張りだったので、かろうじて類焼を免れていた。

  その夜から、家の周辺は騒然としだした。まず厚木海軍航空隊が敗戦を認めず、戦争を継続するという。小園基地司令が断固戦いを継続するということで、いつもより基地から飛び立つ戦闘機が多くなる。その戦闘機から戦闘継続の無数のビラが撒かれた。夜になると、遠く横須賀基地と火炎放射器を使って、交信をする。何とも勇ましい。

 厚木海軍航空隊が勇ましいのは理由があった。日本中の基地が徹底的に破壊されているのに、この基地はほとんど無傷だった。おそらく、戦闘可能な機が何百機もあったのではないか。後で考えれば、マッカーサーが日本へ進駐するとき、厚木に第一歩を踏み入れる計画で、そのために温存していたというのだから、残念ながら相手は余裕である。

 当時はまだ、わが家の周辺には多くの松林が残っており、その林の中に多くの海軍機が隠されていた。飛行場の空襲を避け、隠されていたのである。ゼロ戦、雷電、月光、彗星、九六式艦上爆撃機、そして小田急線と並行して走る今のバス通りは、隠れ滑走路だった。
厚木基地の滑走路が爆撃で使用不能になったとき、使うのを想定していた。

 しかし、それらの飛行機の必需品であるガソリンは相当、ひっ迫していたようである。横浜が空襲された日、私の家の屋根の上から、東の空はいっぱいに煙で覆い尽くされているのが見え、時々、煙の間から大きな炎が閃くのが見えた。その時である。横浜の方から一機の雷電が火を噴きながら、大きく旋回しながら飛んで来て、我が家の屋根をかすめるように、厚木基地へ帰投していった。そうこうしているうちに、厚木基地の上空も、グラマンやロッキードなどが、わがもの顔に飛ぶようになり、時々銃撃を加えていった。

ある日、学校からの帰り道、山の中で飛行機を整備している兵隊さんに、「なぜ戦わないで、こうして山の中に飛行機を隠しておくのか」と聞いたことがある。私は「本土決戦に備え、飛行機を温存しておくのだ」という答えを期待していたのだが、その整備兵の答えは私の予想と違っていた。彼は、「子供には言えないが、ガソリンが足らないからだ」と言った。

 そんな経験があるので、厚木基地の小園大佐が徹底抗戦を叫んでいるという話も、何か最後のあがきにしか見えなかった。そのうち、中央政府から「勅使」とやらが来て、帝国海軍の最後の抵抗は終わった。

 そして、厚木基地に占領軍の先遣隊が到着し、数日してマッカーサー司令官が第一歩を印す日が来た。寄宿舎にいた多くの台湾少年工が、今度は占領軍が進駐する厚木基地の整備の為、駆り出されていた。当時の滑走路は確かコンクリートでなく、砂利で固めたものだったので、その整備に多くの人力を必要としたのである。そのころはもう、日本海軍は武装解除され、既にそれぞれの故郷へと帰ってしまっていた。

 マッカーサー到着の日は、朝から数えきれないほどの軍用旅客機・ダグラスが飛来し、厚木基地上空を旋回して、順次着陸していった。動員された台湾少年工は、コーンパイプをくわえてダグラスから降りてくるマッカーサーを整列して迎えたという。日本海軍の飛行機を造っていた彼らは、ダグラス輸送機の中から、何台も大型トラックが下りてくるのに、いちばん驚いたそうだ。彼らは、飛行場整備のお礼としてか、沢山の軍用食糧をもらって帰ってきた。その中からチョコレートを一枚と、生まれて初めてチューインガムなるものをもらった。
 
 確か、この戦争が始まったのも、アメリカやイギリスが石油の供給を停止したからだと聞いていた。石油の不足で始まった戦争が、最後には石油の不足で十分に戦えないで終わった。そう言っていいかもしれない。1945年8月、わが11歳の時の忘れられない記憶を、徒然なるままに書いてみた。はるかに遠い、遠い日の思い出である。

2015.9.30掲載


大和稲門会 名誉会長加藤英雄氏(前会長)「心の大きい中国人」

 「稲門やまと」第32号(2015年4月1日発行)より転載

心 の 大 き い 中 国 人

    加藤名誉会長     名誉会長 加藤英雄(昭17専商卒)

 尖閣諸島の領有権をめぐって日中が冷えこんだ状態が続き、時あたかも戦後70年を迎えている昨今である。日中の重厚な交流は日中双方にとって最も大切な事である
 標題の「中国人の大きい心」とは戦争中から終戦にかけて、軍人として中国大陸に派遣された私自身の体験談である。

 私は1942年秋(昭和17年)から1946年(昭和21年)4月まで上海郊外に3年半にわたり、一部隊に勤務していた。
 この3年半は弾丸は一発も撃たず、中国人は1人も傷つけず世にも珍しい軍隊生活であった。
 部隊の規模は800人位、内地から志願して来た未婚の女性(主にタイピスト、電話交換手、看護婦、事務員)、軍属(技術屋と事務員)及びその家族等可成りの人数も在籍していた。 
又、特殊な業務である為、地元の多数の中国人を労働力として雇い、親方は中国人専門の日本の軍人であった。
 終戦になると中国人は戦勝国として至る処で歓喜に包まれた雰囲気で、明るい笑顔が印象的であった。
 予想に反し、終戦になっても中国人から暴行されたり、迫害行為を受ける事は一切なかった事も書き置かなければならない。

 私達、日本人はいよいよ日本に帰る事になり、一番目に婦女子、二番目に軍属家族、最後に軍人の順番となった。
貴金属、時計、装飾品、指輪等はすべて没収されるものと思っていた。
 この頃中国の最高幹部から次のような指令が出ていたのではないかと想像される現象が次から次と出てきた。
 指令の主旨は「戦争は終わった、我々中国は勝った。日本は敗けた、過去長い年月にわたり日本軍からいためつけられ、ひどい目に遭った。
 しかし、今後は日本人に対し温かい気持ちで日本に帰してやりなさい」という様な指示であったと想像する。
 私共としてはそういう指令は全く知らないから、帰国する時は丸裸になって当り前と覚悟していたが、いざ身体検査や手荷物検査の際は何一つ没収されず故郷日本に帰る事が出来た。

 船はアメリカ軍のLSTで、対馬列島が見えて来た時には、日本に帰って来たのだと涙がとまらなかったと同時に中国人の心の大きさに敬意を表したものである。故郷上陸は博多であった。
今思うに終戦時、日中が逆転していたら、日本人の対応はどうだったのだろうか?
 おそらく中国人の様な心構えや対応は出来なかったと思う。
 中国の方々よ!有難う!有難う!
 人の恩は決して忘れてはいけない。

 私は今、ワンルームマンションを所有しており、一昨年、中国の娘さんが入居された。日本語も可成り出来た娘さんで小田急沿線の会社に勤めておられた
 私は、上海における中国人の温かい心にこたえなければいけないと思い、他の居住者より色々と気をつかって少しばかりの恩返しをした。
 昨年、縁あって中国の青年と結婚する事になり南林間に居住、最近赤ちゃんにも恵まれ幸せそうであった。
 これからもマンションに中国人が入居したら大切に対応しょうと思っている。

名誉会長 加藤英雄(昭17専商卒)




大和稲門会 石川会長からのお願い
「ありがとう台湾・チャリティ演奏会」

台中市での大会は大成功、
全員満足して4月3日に帰国しております

ありがとう台湾・がんばれ東日本チャリティ演奏会について

会長 石川公弘

 お蔭様で大成功だった留日70周年歓迎大会
 昨年5月9日の開催された台湾高座会歓迎大会には、種々ご協力をいただきありがとうございました。お蔭さまで盛大に開催することができ、来日された元台湾少年工の皆様はもちろん、同伴されたご家族も、たいへん喜んでいました。李雪峰・台湾高座会会長からは、「心に沁みる大会だった。流石に日本だ」との評価をいただきました。

 
 「姉妹のように素晴らしい日台関係」
 多くの好意的な感想が寄せられましたが、舞台女優の一青妙(ひととたえ)さんの文章をインターネット上に発見したときは、ある種の感銘を覚えました。一青妙さんは、「台湾高座会歓迎大会にお仲間に誘われ参加したが実に素晴らしかった。台湾高座会の人たちのような積み重ねがあって、今日の友好的な日台関係が成立しているのだ。私が二人姉妹であるせいか、日台関係はお互いに助け合う姉妹のような関係と思う。今回の東日本大震災では台湾が姉となって困難な中にある日本を助けた。その前の台中地震の際は、日本が姉になり真っ先に救援隊を台湾へ送ってくれた。この姉妹のような素晴らしい日台関係のために、私も力になりたい」というのです。

 親しき仲にも礼儀あり
実は台湾高座会留日70周年歓迎大会には、台湾民主化の父・李登輝さんの出席と、そこでの講演が予定されていました。しかし直前に体調不良となり、残念ながら出席いただけませんでした。そのため、皆様からいただいたお金が少し余っていました。何か有益に使いたいと、私たちは考えていました。

 一青妙さんの日台姉妹論を読み、私たちは「親しき仲にも礼儀あり」という言葉を思い出しました。東日本大震災に当たり世界一の支援をしてくれた台湾の人たちに、私たちは十分な礼節を尽くしているのか。台湾からの災害支援金は、赤十字や大使館など公的機関を通じてのものだけで200億、その他に台湾の仏教界は、震災直後、直接被災地へ入り、一世帯当たり平均5万円を手渡し、その額85億円に上るそうです。

 「ありがとう台湾・がんばれ東日本演奏会」の共催提案
台湾の世界一の支援に対し、当時の日本政府はどう対応したのでしょう。国交がないというだけで、慰霊祭でも正式の外交官扱いせず、献花の列にも加えなかったのです。その後の安倍政権は、対応を改めましたが、まだ十分とは言えません。そこで思いついたのが、東日本大震災支援に対する「ありがとう台湾チャリティ演奏会」の開催でした。私たちは歓迎大会実行委員会を、「ありがとう台湾チャリティ演奏会実行委員会」に改組して、直ちに台湾高座会へ打診しますと、「大賛成」とのこと。ただ「自分たちも、第二の故郷である日本の再建に期待し、がんばれ東日本チャリティ演奏会で協力したい」と申し出てくれました。そこで「ありがとう台湾・がんばれ東日本チャリティ演奏会」を共催することになりました。

 最後は日台・老壮青少による壮大な「花は咲く」の大合唱
 直ちに演目の話し合いに入りましたが台湾側から、「福島の被災地から見事立ち上り被災住民を慰問している南相馬ジュニアコーラスアンサンブルは」との提案がありました。帰国後、直ちに福島へ飛び、指揮者の金子洋一さんにお願いすると、協力したいとのこと。そこで南相馬ジュニアコーラスと、これも被災地・花巻の出身で、台湾へのお礼行脚に実績のあるオペラ歌手の古川精一さんを軸に演奏会を構成することが決まり、ノーベル化学賞の根岸英一博士に、これをサポートしてもらうことになりました。

 台湾側は、古川精一さんのお世話で、評価の高い国立台湾師範大学音楽部の女性コーラスと中歴青少年管弦楽団の協力が決まりました。司会は、バイリンガルの一青妙さんにお願いしました。演奏会の最後は、日台・老壮青少による壮大な「花は咲く」の大合唱を予定しており、必ず素晴らしい演奏会になると期待しています。

 台湾大好き人間の皆様、ぜひ参加してください
 開催日は4月1日、場所は台中市の中山堂、定員1610名の大演奏会場です。開催に当たっては台中市政府の全面的な支援をいただくことが出来ました。台湾側から「参加者の三分の一は日本人が望ましい」との提案もあり、日本人は500名を参加目標としました。皆様には、この趣旨にご理解をいただき、ご協力を心からお願い申し上げます。

2014年2月2日

             会長 石川公弘

ありがとう台湾・チャリティ演奏会 のページから当日の写真をご覧いただけます

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