早稲田大学校友会 大和稲門会ホームページ

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      5/10:「新型コロナウィルス感染拡大に伴う大和稲門会活動の休止について」を掲載しました。
      4/28:5月12日予定しておりました「春のハイキング」も中止いたします。(稲門やまと第42号送付時連絡済です)
      4/28:カラオケ同好会、詩吟の会は5月例会は中止いたします。
      4/17:新しい勉強会「書き方教室」を予定してます。希望者は申し込みを
      4/10:稲門やまと第42号を会員の皆様に送付しました
      4/2:カラオケ同好会、稲門やまと詩吟の会はコロナ感染防止のため3月に続き4月も中止します。
      3/07:春季代議員会は新型コロナウィルス感染防止のため中止となりまし
         た。議案等は代議員会の所に掲載
      2/20:大和稲門会宮崎新会長のご挨拶を掲載しました
    

ようこそ!
 早稲田大学 大和稲門会のホームページ
神奈川県大和市を中心に活動している'大和稲門会は、早稲田大学の校友との趣味を通して、日々の生活を豊かに楽しみたい校友の皆さんの親睦会です。皆さんの参加をお待ちしています。
 会員相互の親睦・情報交換のほかにも、私たちの母校との絆となる支援活動の場として、また神奈川県支部傘下の校友会として、さらに県下各地の稲門会との有機的な交流を主に活動しています。

 このホームページでは、私たちの大和稲門会の活動を広く紹介し、会員に対しては相互の情報交換と活動の場として、さらには新たな会員を迎えるために参考となる情報を提供しております。

大和稲門会 会長寄稿文「宮崎新会長就任のご挨拶」

   会長特別寄稿文

 ご 挨 拶 

    キャプチャ (3)     大和稲門会 会長 宮崎 顕

 会員の皆様並びに本ホームページをご覧いただいております校友をはじめとする関係者の皆様には私共大和稲門会の活動に対しご理解とご協力・ご支援をいただいおりますことに対し厚くお礼を申し上げます。
 昨年11月、大和稲門会は創立25周年を迎えました。その節目の年に四代目会長を引き受けることになりました、昭和42年法学部卒の宮崎顕です。このような時期に、大和稲門会会長という重責を担うことに対し身の引き締まる思いでいっぱいです。
 さて、大和稲門会には80名程の会員が在籍しておりますが、会費を支払い活動している会員は50名余りと大変厳しい状況にあります。一方、大和市内に在住している校友数は1,000名弱と推測されており、会員の拡大を図る余地は十分あり、会員の増強策を具体的に進めていく所存です。特に女性会員を増やし女性会員の活動の活発化に尽力したいと考えております。
 また、昨年の総会において会則の改正を行い、会の活動にご理解いただける方に準会員、家族会員、賛助会員として入会していただけることになりました。
 そのためにも会の魅力を高め、「早稲田の輪」を大事にし、和を重んじつつ、会員の皆様の趣味を生かし仲間を増やし、親睦を高めていくよう「同好会活動」により一層力を入れていきたいと考えております。
 昨年を振り返りますと平成から令和に移行、新天皇の即位というおめでたいニュースが続きました。スポーツ面に目を転じるとラグビーのワールドカップで日本はベスト8入りの大健闘、全国大学ラグビー選手権では、わが早稲田は宿敵明治を破り優勝という栄誉を得ることができました。
 今後は新しい役員と共に会員の増加と会の活性化を図りながら楽しい稲門会活動を進めてまいりたいと思っております。
 今後とも皆様方のご支援ご協力をお願い申し上げます。

大和稲門会 会長より会員の皆様へのご連絡 (令和2年5月10日)

   

新型コロナウィルス感染拡大に伴う大和稲門会活動休止について

 新型コロナウイルスの感染影響が深刻化する中、大和稲門会会員の皆様、いかがお過ごしでしょうか.
 去る4月7日の政府による「全国緊急事態宣言」を踏まえ、早稲田大学総長及び校友会代表幹事名で、全国の校友会、稲門会に対して、9月19日までの活動中止要請が出されております。活動中止の範囲は、「会議、各種総会、会合、イベント等」と述べられており、ほとんどすべての稲門会活動が活動中止の対象となっています。稲門会活動は沢山の人が集まり懇親する機会も多く、しかも、高齢者が多い事から感染リスクが高い、とも述べられています。

 また去る5月4日、政府の緊急事態宣言の期限は5月31日まで延長され、「外出自粛」や「三密回避」など、感染予防に向けた私達一人ひとりの高い防疫行動が引き続き求められる事態になっています。

 大和稲門会では、春のハイキング(5月12日予定)や早慶ゴルフコンペ(5月26日予定)の中止を決定し、各種同好会活動も5月31日までは中止する、との発表を行ってきましたが、事態の深刻さと今後の収束が見込めない状況の中で、会員皆様の健康を第一に考えると、当稲門会の活動も当面は休止せざるを得ないと考えます。そこで、早稲田大学及び校友会本部の意向に沿って、大和稲門会でも9月30日迄は、予定している次の行事を中止することといたします。

 <中止する活動>
1. 県下稲門会が主催するイベント、又は総会への参加
2. 各種同好会活動(カラオケ、詩吟、パソコンゼミ等)
3. 新たに予定していた活動(書き方教室、俺たちの時代研究会等)
4. バーべキュー大会(9月20日予定)

 10月以降の対応につきましては、今後の感染状況や早稲田大学からの要請等を踏まえた上で、あらためてお知らせ申し上げます。
活動を楽しみにされていた会員の皆様には大変心苦しく思っておりますが、何卒ご協力の程、宜しくお願い申し上げます。

 また、こうした状況に鑑み、当稲門会の今後の幹事会や打合せ等をSkypeやZoomを使ったオンライン会議に移行できないものかと考えています。会員の皆様には、アカウントの取得やアプリの機能などにつき各自がスタデイーされ、早期にオンライン会議が実現できますようご協力をお願いします。
                              以上

大和稲門会 会長寄稿文「敗戦の日々を回顧する」

   会長特別寄稿文

戦後70年 敗戦の日々を回顧する

    石川会長      大和稲門会 会長 石川 公弘

 昭和20年8月15日は、確か暑い日だった。当日は正午に「玉音放送」とやらあるということで、国民学校5年生だった私も、今も住んでいる大和町上草柳の我が家のラジオの前にいた。数日前に満州へソ連軍が突如侵入をしてきたことを知っていたので、おそらくそれに対する宣戦布告だろうと、子供心に考えをめぐらしていた。   

 正午の時報の後、NHKのアナウンサーの紹介があって、玉音放送は始まった。生まれて初めて聞いた天皇陛下の声はかん高かった。その上、ラジオの性能が悪いのか雑音が多く、よく聞き取れない。使われている言葉も聞き慣れないものばかりで、よく理解できなかった。しばらくすると、台湾少年工の寄宿舎の舎監をしていた父親が、家に立ち寄ったので、「お父さん、ソ連との戦争が始まったの」と聞いてみた。

 父親は沈痛な顔をして、「いや、戦争に負けたんだ」と短く言った。びっくりした。しかし、心のどこかに「そうだろうな」という気持ちも正直あった。新聞やラジオは連日のように、「神州不滅」を言い、神風特攻隊は連日、敵艦隊に突入して多大な戦果をあげていたが、一方で東京や横浜がB29の大編隊に爆撃されて、真っ赤に燃え上がるのを目撃したり、叔母の住む平塚も爆撃され、父親と見舞いに行ったら、隣家まで焼野原だったりしたのを、見ていたからである。幸いなことに、叔母の家は壁面がトタン張りだったので、かろうじて類焼を免れていた。

  その夜から、家の周辺は騒然としだした。まず厚木海軍航空隊が敗戦を認めず、戦争を継続するという。小園基地司令が断固戦いを継続するということで、いつもより基地から飛び立つ戦闘機が多くなる。その戦闘機から戦闘継続の無数のビラが撒かれた。夜になると、遠く横須賀基地と火炎放射器を使って、交信をする。何とも勇ましい。

 厚木海軍航空隊が勇ましいのは理由があった。日本中の基地が徹底的に破壊されているのに、この基地はほとんど無傷だった。おそらく、戦闘可能な機が何百機もあったのではないか。後で考えれば、マッカーサーが日本へ進駐するとき、厚木に第一歩を踏み入れる計画で、そのために温存していたというのだから、残念ながら相手は余裕である。

 当時はまだ、わが家の周辺には多くの松林が残っており、その林の中に多くの海軍機が隠されていた。飛行場の空襲を避け、隠されていたのである。ゼロ戦、雷電、月光、彗星、九六式艦上爆撃機、そして小田急線と並行して走る今のバス通りは、隠れ滑走路だった。
厚木基地の滑走路が爆撃で使用不能になったとき、使うのを想定していた。

 しかし、それらの飛行機の必需品であるガソリンは相当、ひっ迫していたようである。横浜が空襲された日、私の家の屋根の上から、東の空はいっぱいに煙で覆い尽くされているのが見え、時々、煙の間から大きな炎が閃くのが見えた。その時である。横浜の方から一機の雷電が火を噴きながら、大きく旋回しながら飛んで来て、我が家の屋根をかすめるように、厚木基地へ帰投していった。そうこうしているうちに、厚木基地の上空も、グラマンやロッキードなどが、わがもの顔に飛ぶようになり、時々銃撃を加えていった。

ある日、学校からの帰り道、山の中で飛行機を整備している兵隊さんに、「なぜ戦わないで、こうして山の中に飛行機を隠しておくのか」と聞いたことがある。私は「本土決戦に備え、飛行機を温存しておくのだ」という答えを期待していたのだが、その整備兵の答えは私の予想と違っていた。彼は、「子供には言えないが、ガソリンが足らないからだ」と言った。

 そんな経験があるので、厚木基地の小園大佐が徹底抗戦を叫んでいるという話も、何か最後のあがきにしか見えなかった。そのうち、中央政府から「勅使」とやらが来て、帝国海軍の最後の抵抗は終わった。

 そして、厚木基地に占領軍の先遣隊が到着し、数日してマッカーサー司令官が第一歩を印す日が来た。寄宿舎にいた多くの台湾少年工が、今度は占領軍が進駐する厚木基地の整備の為、駆り出されていた。当時の滑走路は確かコンクリートでなく、砂利で固めたものだったので、その整備に多くの人力を必要としたのである。そのころはもう、日本海軍は武装解除され、既にそれぞれの故郷へと帰ってしまっていた。

 マッカーサー到着の日は、朝から数えきれないほどの軍用旅客機・ダグラスが飛来し、厚木基地上空を旋回して、順次着陸していった。動員された台湾少年工は、コーンパイプをくわえてダグラスから降りてくるマッカーサーを整列して迎えたという。日本海軍の飛行機を造っていた彼らは、ダグラス輸送機の中から、何台も大型トラックが下りてくるのに、いちばん驚いたそうだ。彼らは、飛行場整備のお礼としてか、沢山の軍用食糧をもらって帰ってきた。その中からチョコレートを一枚と、生まれて初めてチューインガムなるものをもらった。
 
 確か、この戦争が始まったのも、アメリカやイギリスが石油の供給を停止したからだと聞いていた。石油の不足で始まった戦争が、最後には石油の不足で十分に戦えないで終わった。そう言っていいかもしれない。1945年8月、わが11歳の時の忘れられない記憶を、徒然なるままに書いてみた。はるかに遠い、遠い日の思い出である。

2015.9.30掲載

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